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理系ミステリーとは

2010年12月06日 00:23

しばらく慌ただしい日々が続きましたが、なんとか師走に入り、ちょっと落ち着いたかなという感想です。
休日にはやっとゆっくり時間をとってどっぷり読書をする時間が作れ、徐々にペースも戻りつつあります。

今日はちょっと本についての話題。

先月本の交換会みたいなのを企画して、その際に森博嗣のデビュー作『すべてがFになる』をもらったので、読んでみたところ、ミステリーは日頃あまり読まないにも関わらず、どっぷりとハマってしまい、続々と作品を購入し隙間時間を見つけてはちょびちょび読み進めている。

まだまだ4冊目を読み終わったところだが、森博嗣のミステリーは今まであまりミステリーを読まなかったボクにもすごくすとんと入ってきて、久しぶりに作品全部読んでみようと思わせる著者である。
このボクの、今までのミステリー敬遠と、そして何故森博嗣のミステリー小説にはハマってしまったかという言語化できていない現象について、日頃は惰性で読み進めてしま文庫本特有の巻末の解説に、ちょっと腑に落ちる文章があったのでここにメモ。

「思うに、森ミステリィの新しさの一つは犀川という<探偵>の存在形態に(それはすなわち真賀田博士という<犯人>のあり方でもある)、そしてもう一つは殺人の<動機>に対する犀川の、というよりも作品自体の無関心にある」
-詩的私的ジャックP.464


上の引用の後半部分、これが森博嗣作品の魅力の一つであるとボクは考える。そしてこう続く。

「それが本格であろうと、あるいは清張型の社会派であろうと、従来ミステリィが物語の要素として重視してきたものは動機であった。ことに本格・新本格において、殺人のスタイルがゲーム化されたり、装飾性が過剰になったりした場合、作品の説得力の有無はひとえに動機が担ってきたといえる。過去の怨念だの復讐だのといった動機が丹念に描き込まれることによって、読者はなぜ犯人が複雑怪奇な殺人の方法をわざわざ選択するのか、という当然の疑問を解消する事ができる。常識的に考えれば、通りすがちの殺人を装う方がずっと成功率が高いし、見立て殺人等の演出をしているひまがあったら、さっさと走って逃げた方が安全だ。にもかかわらず、なぜ犯人は危険を冒してまで、目の前の死体にあれやこれやの装飾をほどこすのか?あるいはなぜこのように、人語を絶する残虐性を発揮するのか?そのときに必要とされるのが動機なのである。犯人の過去の過酷な体験、やむにやまれぬ復讐への怨念、あるいは狂った美学。それらが語られる事によって、読者は犯人の内面を理解し、あるときは共感すら覚える。だがそれは幻想に過ぎない。犯人どころか、隣にいる友人の心すら私達は本当に理解することなぞできないのだ」
-詩的私的ジャックP.464


理系作家、理系ミステリー小説とよく分らない言葉で語られる森博嗣だが、他の作者とは違うということで付けられた理系という形容の意味が少し理解できたような気がする。

多くのミステリーが上の引用で示されるように、「動機」をその残虐さの説明として用いている。なぜわざわざこんな手の込んだことをしなければいけなかったのかという点を、主観で語ってしまうのだ。この点が何故か合点がいかなかったのであるが、森博嗣作品は違う。
主人公の犀川は、何故かいつでも殺人事件にまきこまれてしまうのであるが、常に殺人の動機に対して無関心なのである。そして手の込んだ過程は常に必然として語られる。犯人はこうせざるを得なかった、こうする必然性があったという点から事件を解いていく。

この必然性への徹底的なこだわりが、ミステリーというジャンル内にありながらも、どこか今までのミステリーを否定しているようで何とも面白い。
時には犯人の性格/感情から必要以上の装飾がなされる場合もあるのだが、主人公である犀川は「理解できない」と一蹴する。
このスタンスが非常に明快でどんどん読み進めてしまう。

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(1998/12/11)
森 博嗣

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