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注意深いことの価値

2010年12月09日 05:41

ここにAさんとBさんがいたとする。
あなたがもし、明日のドライブで運転手を任せるとしたら、どちらの運転手に任せるだろうか。

Aさん…運転スキルは並以下だが、運転に対する(運転時の)注意深さが並以上
Bさん…運転スキルは並以上だが、運転に対する(運転時の)注意深さが並以下

これを見ると、必ずしも運転スキルだけを見てBさんを選べるかという人は少ないのではないだろうか。


使う側の人と使われる側の人に必要なスキルセットは全く違うのだが、サラリーマンとして働いていると、はじめはどうしても使われる側の立場に回る事が多い。

ボクたちは、運転ばかりをするわけではない。
まず、注意深くいようと思う。

理系ミステリーとは

2010年12月06日 00:23

しばらく慌ただしい日々が続きましたが、なんとか師走に入り、ちょっと落ち着いたかなという感想です。
休日にはやっとゆっくり時間をとってどっぷり読書をする時間が作れ、徐々にペースも戻りつつあります。

今日はちょっと本についての話題。

先月本の交換会みたいなのを企画して、その際に森博嗣のデビュー作『すべてがFになる』をもらったので、読んでみたところ、ミステリーは日頃あまり読まないにも関わらず、どっぷりとハマってしまい、続々と作品を購入し隙間時間を見つけてはちょびちょび読み進めている。

まだまだ4冊目を読み終わったところだが、森博嗣のミステリーは今まであまりミステリーを読まなかったボクにもすごくすとんと入ってきて、久しぶりに作品全部読んでみようと思わせる著者である。
このボクの、今までのミステリー敬遠と、そして何故森博嗣のミステリー小説にはハマってしまったかという言語化できていない現象について、日頃は惰性で読み進めてしま文庫本特有の巻末の解説に、ちょっと腑に落ちる文章があったのでここにメモ。

「思うに、森ミステリィの新しさの一つは犀川という<探偵>の存在形態に(それはすなわち真賀田博士という<犯人>のあり方でもある)、そしてもう一つは殺人の<動機>に対する犀川の、というよりも作品自体の無関心にある」
-詩的私的ジャックP.464


上の引用の後半部分、これが森博嗣作品の魅力の一つであるとボクは考える。そしてこう続く。

「それが本格であろうと、あるいは清張型の社会派であろうと、従来ミステリィが物語の要素として重視してきたものは動機であった。ことに本格・新本格において、殺人のスタイルがゲーム化されたり、装飾性が過剰になったりした場合、作品の説得力の有無はひとえに動機が担ってきたといえる。過去の怨念だの復讐だのといった動機が丹念に描き込まれることによって、読者はなぜ犯人が複雑怪奇な殺人の方法をわざわざ選択するのか、という当然の疑問を解消する事ができる。常識的に考えれば、通りすがちの殺人を装う方がずっと成功率が高いし、見立て殺人等の演出をしているひまがあったら、さっさと走って逃げた方が安全だ。にもかかわらず、なぜ犯人は危険を冒してまで、目の前の死体にあれやこれやの装飾をほどこすのか?あるいはなぜこのように、人語を絶する残虐性を発揮するのか?そのときに必要とされるのが動機なのである。犯人の過去の過酷な体験、やむにやまれぬ復讐への怨念、あるいは狂った美学。それらが語られる事によって、読者は犯人の内面を理解し、あるときは共感すら覚える。だがそれは幻想に過ぎない。犯人どころか、隣にいる友人の心すら私達は本当に理解することなぞできないのだ」
-詩的私的ジャックP.464


理系作家、理系ミステリー小説とよく分らない言葉で語られる森博嗣だが、他の作者とは違うということで付けられた理系という形容の意味が少し理解できたような気がする。

多くのミステリーが上の引用で示されるように、「動機」をその残虐さの説明として用いている。なぜわざわざこんな手の込んだことをしなければいけなかったのかという点を、主観で語ってしまうのだ。この点が何故か合点がいかなかったのであるが、森博嗣作品は違う。
主人公の犀川は、何故かいつでも殺人事件にまきこまれてしまうのであるが、常に殺人の動機に対して無関心なのである。そして手の込んだ過程は常に必然として語られる。犯人はこうせざるを得なかった、こうする必然性があったという点から事件を解いていく。

この必然性への徹底的なこだわりが、ミステリーというジャンル内にありながらも、どこか今までのミステリーを否定しているようで何とも面白い。
時には犯人の性格/感情から必要以上の装飾がなされる場合もあるのだが、主人公である犀川は「理解できない」と一蹴する。
このスタンスが非常に明快でどんどん読み進めてしまう。

すベてがFになる (講談社文庫)すベてがFになる (講談社文庫)
(1998/12/11)
森 博嗣

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『モモ』の世界観

2010年10月20日 23:21

『モモ』という児童文学をご存知だろうか。

小さな女の子モモ、ベッポじいさん、ジジ、そして時間泥棒と呼ばれる灰色の男たち、が出てくる物語と言えば誰でもなんとなく、小さい頃に読み聞きした覚えがあるのではないだろうか。

愛蔵版 モモ愛蔵版 モモ
(2001/11)
ミヒャエル エンデ

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9月の中旬、ちょうど月曜日が祝日だった際に、久しぶりに「クルミドの夕べ」に行ったのだが、そのときのテーマが『モモ』の作家である、ミヒャエル・エンデであった。それから懐かしい本書がものすごく読みたくなったので時間を見つけて読んでみた。児童文学という括りであるにも関わらず内容は深く、現実社会の問題をまざまざと見せつけられ、10数年ぶりに改めて読むと非常に考えることが多い内容だったため、ここに少しメモ。

名前を聞いただけでは、ちょっと内容が思い出せないという人のために、あらすじ。

 イタリア・ローマを思わせる大都会の街外れにある古代円形劇場の廃墟。そこに住み着いた不思議な少女モモが主人公。モモは「人の話しを聞く才能」を持っていて、街の皆の相談役になります。喧嘩中の人達がモモの前で話し合えば不思議と仲直りできました。作り話や子供達の冒険ごっこにモモが加われば、いつも以上に想像が広がり、皆が楽しめました。特に街一番のホラ吹き・夢想家の「ジジ」と、寡黙な掃除夫「ベッポ」とモモは厚い友情で結ばれました。

 そんな平和な街に、ある日「灰色の男達」がやってきます。どこからともなく、一体いつからか、誰も気付かないうちに街中に灰色の男が現れました。灰色の男達は「時間貯蓄銀行」の社員であり、人々に「時間を貯蓄すれば、利息をつけて返し、寿命を延ばす」と約束します。次第に人々は時間を節約するようになり、子供に構わなくなり、お店は利益優先となり、街から笑い声が消えていきました。
古代円形劇場にも、誰も訪れなくなりました。

 異変に気付いたモモは、皆の時間が灰色の男達に騙されて盗まれていることを知ります。
ジジとベッポ、街の人々に事実を伝えようとしますが、灰色の男達から狙われるようになります。
果たしてモモは灰色の男達と戦い、無事に皆の時間を取り戻すことができるのか…。
モモ(MOMO) ミヒャエル・エンデ(Michael Ende)


時間泥棒である「灰色の男たち」が現れてから、街ではせかせかと働く人が増える。灰色の男たちは、人々に時間の無駄を徹底的に省かせ、その余った時間を自分のものにしてしまうのだ。街の人々は「良い暮らし」と信じて無駄な時間を一切節約し、追い立てられるような生活を送るようになる。確かに時間を節約して働く事で車を買ったり、豊かになる者も増える。しかし「忙しい、時間がない」と人々は時間に追われる日々を過ごし、心にも余裕が無くなっていく。

「でも時間はどこから手に入れます?倹約するしかないんですよ。フージーさん、あなたはまったく無責任に自分の時間をむだづかいしています。おわかりいただけるように、ちょっと計算してみましょうか。一分は六十秒です。一時間は六十分。この計算についてこられますか...では少なめに七十歳までとして計算してみましょう。つまり三億一千五百三十六万の七倍ですな。答えは、二十二億七百五十二万秒。」
ー少年文庫版 P.88


本書が初めて世に出たのは1973年。この頃には、架空の笑い話なのかもしれないが、ふと今の世の中を見ると、どうも笑い話を聞いているようには思えなかった。私自分を含め、時間の節約、そして時間に追われる日々を過ごしているし、ひょっとすると時間泥棒がいるのではないか、と思うほどに、どこか現実はモモの世界と酷似しているようにボクには見えてならない。
本書は世界的に大ヒットとなっているのだが、作者の出身国であるドイツの次に、日本での売り上げが大きいというのは、非常に意味するところが大きい。

本書のテーマを一言で言うならば、「時間」である。時間とは何か、そしてそれは死生観をも含み、物語全体の中で横たわる問いである。

「とてとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、そのことを考えてみる人はほとんどいません。たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、それをいっこうにふしぎとも思わないのです。この秘密とは―ー時間です。
 時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。
 なぜならば時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。」
ー少年文庫版 P.83

手段と目的の間違いというのは、色々なところで起こってしまいがちな問題ではあるが、灰色の男たちに支配されたモモの世界でも、本来手段であるべき時間の節約が目的となっている。そしてそれは、ボクたちが生きている世界の大きな問題をズバリと言い当てているのではないだろうか。

ふと、我々自身のことを考えても、この時間という問題において手段と目的をごちゃごちゃにしている場合が多い。日々せかせかと生きることが目的であることはほとんど無いのではないか。本書は日頃なかなかじっと立ち止まって考える機会のないこの問題を考えさせてくれた。

「『わたしは今の話を、』とそのひとは言いました。『過去におこったことのように話しましたね。でもそれを将来おこることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。』」
ー少年文庫版 P.398<作者のみじかいあとがき>

大人もちょっとドキっとさせられる作品である。



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